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 蚊 


 隣りに寝ている男の名前は三枝という。同じ会社の建築デザイナーの若きホープであり、同様のデザイナーである美和子のライバルであり、一応、恋人ということになっている。お互いいい大人なので恋人というからには半同棲の状態で、たいていどちらかの家にいる。

 家賃ももったいないし、結婚を意識して一緒に住まないか、と三枝は再三言うが、美和子にそんな気持ちはこれっぽっちもない。
(私がどうしてあなたと付き合っているのか、考えたことはないのかしら)
 美和子は三枝を愛していなかった。嘘をつくのが嫌いな彼女は、「好き」だの「愛してる」だのといった類の言葉を言ったことはないのだが、それなのにここまで思い上がれるこの男の愚かさは少し愛しいと思う。
(私のためにもっと愚かになってちょうだい)
 三枝の顔を微笑をたたえて見つめる。
 
「う〜ん」
 三枝がまた寝返りを打つ。何度目だろう。おやすみ、とキスをしてから30分。すでに20回は越えているのではないかと思われる。
「どうしたの?また眠れないの?」
 こういうときの自分の声は寒気がするほど優しげであると思う。しかし、男というものは簡単に騙されるのだ。
「蚊の羽音が気になって眠れないんだ。僕に構わないで寝れくれ」

 この男はとんでもなく神経質である。取った魚の骨を綺麗に並べたり、使うたびにハンカチをたたみなおしたり、よくもまあ、まだ髪の毛がご存命ですね、と感心してしまうくらいだ。美和子に対しても、やれ雑誌は読んだらすぐに片付けろ、やれ雫が落ちるから髪の毛はしっかり拭いて来いと口うるさい。興味本位で女性遍歴を聞いたことがあったが、長続きしたことが一度もないという。当然だ。なぜそんなことを聞いたのかを気にしながら、でも君とは続いているから運命なのかもしれないね、などと歯が浮くようなことを言いったので思わず吹き出したことを思い出す。こういう男には一生女心がわかる日は来ないのだろう。

「じゃあ、私は寝るけどあなたも早めに寝るのよ」
 心にもない言葉を優しく投げかけ、三枝の顔と逆のほうを向いて寝る体制に入る。美和子も羽音が気にならないわけではないが、どんなところでも寝られるのが特技だ。それにもともと女は図太い。

 こういう日が毎晩続いた。川という川はコンクリートに固められ、水場もおいそれとは見当たらない都会のくせに蚊はどんどんその数を増してきているように思われる。一体どこで繁殖しているのだろう。最初のほうでこそ安眠のために戦いを挑んでいた三枝であったが、なかなか姿を見せない小さな吸血鬼にその気力も失せ、そんな暇があったら少しでも睡眠をとろうと考えるようになったようだ。もっともほとんど眠れていないことには変わりないようだったが。

 そのうち忙しさと寝不足から三枝は体調を崩した。そればかりではなくイライラして美和子に当たるようになった。しかし、そんな三枝にも美和子はいつも優しく微笑みかけるのであった。

 三枝としても仕事を休んでばかりもいられない。無理して会社に出ているうちに今度は精神を病み、ついには退職した。イライラして当たってしまうことを憂いたのか、弱い自分を見せたくなかっただけなのか理由はわからないが、美和子からも離れていった。

「これでゆっくり眠れるわ」
 
 本棚の陰に隠してあったタイマーセットのMDを止め、広くなったベッドと無音の部屋の中で、ライバルが消え去ったことを喜びながら、美和子は久し振りに晴れ晴れした心地で眠りについた。






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